今世紀百物語

生きているのか死んでいるのか

祖母が亡くなったこと

先週18日金曜日の夜、酒を飲み過ぎてイイ気分で、ひとりで秋葉原のヤバイ店に行ってみようかなぁなどと思いながら秋葉原周辺をふらついていたのですが、ちょうどそのころ、祖母が亡くなりました。

脳梗塞で入院してからもう7年以上も胃ろうのまま入院を続けていて、もし意識がないなら胃ろうのまま入院させられ続けるのは気の毒だと思ってましたが、意識がありちゃんと思索ができていたのであれば、死ぬ前、何年間か、色々と思索を続けるというのも悪くないような気もしますので、よかったのかも知れません。こればっかりは私には分かりません。

さいころよく祖母の家に泊まりに行きました。夏は庭で花火したりBBQしたりもしましたし、祖母の家に預けられたときに限って高熱を出したこともありました。家出して祖母の家に行ったこともありましたが、祖母はかばってくれました。高校生のときは飲み会の小遣いをもらうためだけに行ったこともありましたが、そのときはなぜか、なにも説明してないのに何も言わずに1万円くれました。庭でナメクジを塩に着けて消滅させるのを手伝ったりもしました。小さいころは、家では親が見せてくれないテレビ番組も、祖母の家に泊まったときは見せてくれました。高校生くらい以降は、興味本位で戦争の話を振ると、少しだけ戦争の時の話をしてくれました。親世代は逆にそういう話は聞かないみたいです。大学生で一人暮らしだったときは、一緒にスーパー行って食料を大量に買ってくれたりしました。ベトナムで買ったアオザイを着た女の人の人形をお土産であげたとき、ベトナムでは本当にみんなこんな服着てたと話すとびっくりしていました。働き始めてからは大人の事情が面倒になり、職業柄も面倒なのであまり行かなくなりました。娘・息子の兄弟仲が悪いのは親にとって不幸なことだと悟り、自分は姉や弟とは仲違いしないようにしようと誓いました。わたしが結婚したころに入院してしまいました。今年の正月に、子どもが生まれた話をして子どもの動画を見せたら、がんばって目を見開いて見てました。分かるかいと聞いたら、手を握り反応してました。子どもが生まれて3週間ほどで亡くなってしまいました。待っててくれたのかも知れません。

亡くなって祖母の家に行くと祖母がいまして、思わず、家に帰ってこれてよかったねという言葉がでてしまいました。7年以上も家に帰れないのはかわいそうでした。自分が死ぬときも、できれば自宅を離れたくないと思いました。

葬儀が終わり、出棺するときは、おばあちゃんじゃあね、またね、という言葉がでできました。犬と一緒にするのはアレかも知れませんが、以前、飼い犬が死んだときも同じ気持ちでした。わたしは宗教心皆無で、死んだら虚無だと思ってますが、それでも、またいつかどこかで会えるという気がするわけです。十二番目の天使という本にそんなようなことが書いてあるらしいので、読んでみようと思います。

 

祖母は死んでしまうと、ただ動かなくなり冷たくなっていました。葬儀が終わり、流れ作業で焼かれ、あとは粉みたいな骨しか残りませんでした。骨が残るのではなく、生前よく作っていたちぎり絵などが残ったという感じです。こんな駄文でも、骨よりは残ると気づき、この駄文を残しているわけです。死んでしまっても身体のことは生き残っている人がなんやかんや骨にしてくれるので、気にしなくてもいいのだとわかりました。家とかも、お金をかけて居心地の良い家を所有したとしても、死んだあとはそのまま残るわけではなく、生き残った人が勝手にいじったり壊したりするだけなんでしょう。死に方なんか気にせず、気など使わず、思ったとおり好きなように生きた方がいい、ということを教えてもらいました。札幌に住むか東京に住むかなんてことを考えていたことがバカらしくなりました。思ったとおりにすればよいということを再認識しました。メメントモリというやつでしょう。

 

おばあちゃんまたね、という気持ちで秋葉原を徘徊し直そうと思います。